エナジズム提唱論文
更新日:7月30日
エネルギーが形になる瞬間:エナジズム
2026年7月29日更新
序論:エナジズムとは何か
エナジズムとは、目に見えないエネルギーや気配が、動きや現象となって現れる瞬間を捉え、絵画として定着させようとする試みである。
エネルギーそのものを、私たちは直接見ることができない。それでも、人が走り出す瞬間の緊張や、刀が振り抜かれるときの鋭さ、水が落下して砕けていく流れを目にすると、そこに何らかの力が働いていることを感じる。
私にとって「動き」は、その見えない力を知るための、最も大きな手がかりである。
私が世界をエネルギーとして捉えるようになったのは、あらゆる存在が、独立した物体としてそこにあるのではなく、周囲との関係のなかで絶えず変わり続けているように感じるからだ。
滝の水は激しく落下し、砕け、やがて霧となって空気のなかへ消えていく。渡り鳥の群れは、まるで一つの大きな意思を持つかのように空を移動する。アトリエで生まれた一枚の絵も、人の手に渡り、誰かの心を動かし、別の場所へと運ばれていく。
これらは、まったく別の出来事に見える。しかし私には、その奥に共通する流れがあるように思える。何かが動き、形を変え、別の場所へと伝わっていく。その繰り返しのなかに、世界はある。
世界は、切り離された物の集まりではない。さまざまな存在が影響し合い、姿を変えながら続いていく、一つの大きな流れではないだろうか。
古典絵画が物の「形」を描き留め、写真がある瞬間の「光」を記録してきたとするなら、エナジズムが捉えようとするのは、世界のなかを流れる目に見えない力である。
もちろん、エネルギーそのものを描くことはできない。だからこそ私は、動き、色、形、絵の具の痕跡を通して、それが姿を現す瞬間を描こうとしている。
本論では、私自身の経験や制作方法、これまで描いてきた作品を振り返りながら、エナジズムという考え方がどのように生まれてきたのかを整理したい。
第1章:エナジズムはどこから生まれたのか
私の創作の原点には、大学時代の映像制作と、中学・高校時代に取り組んだ陸上競技、特に短距離走の経験がある。
一見すると、映像制作と陸上競技にはあまり接点がないように見える。しかし振り返ってみると、この二つの経験が現在の絵画表現を形づくっている。
大学では、映像を通して色彩や構図、画面のつながりについて学んだ。光が時間とともに変化し、一つの画面が次の画面へと移っていく。その連続のなかで、物語や感情が生まれることに強く惹かれていた。
映像には時間がある。画面は次々と切り替わり、光や人物も動き続ける。一方、絵画は一枚の静止した平面である。
私は絵を描くようになってからも、静止した画面のなかに時間の流れを感じさせたいと考えてきた。形を歪ませ、色彩を重ね、筆の方向や速さを変える。そうすることで、一枚の絵のなかに、直前まで続いていた動きや、このあと起こるかもしれない出来事まで含ませようとしてきた。
陸上競技の経験から得たものは、もっと身体的な感覚である。
短距離走のスタートでは、静止していた肉体が一瞬で運動へ切り替わる。緊張、呼吸、筋肉の反応、地面から返ってくる力。それらが一つになり、身体が前方へ飛び出していく。
その瞬間、身体はただの物体ではなくなる。意志や速度、空間の圧力までを含んだ、一つの現象のようになる。
私の絵画の骨組みには、このとき身体で覚えたリズムがあるのだと思う。
ただし、私が描きたいのは、人が何メートル移動したかということではない。身体が動き始める直前に生まれる緊張や、意志が行為へ切り替わる瞬間、その場の空気まで変わるような感覚である。
静止していたものが動き出す。集中していた意識が、身体の動作となって放たれる。見えなかったものが、初めて形を持つ。
私はその瞬間に強く惹かれてきた。
現代美術の歴史には、感情や身体の動きを絵画へ持ち込んだ多くの先例がある。ファウヴィスムの鮮烈な色彩、抽象表現主義、ジャクソン・ポロックに代表されるアクション・ペインティングなどである。
そうした表現から学ぶものは多い。しかし、私が目指しているのは、描く行為そのものや、その結果として残った絵の具の痕跡だけを主題にすることではない。
映像制作で培った画面構成の感覚と、陸上競技によって身についた身体感覚。その二つを、人物や水、刀、風景といった具象的なモチーフのなかで結びつける。
目に見える形を手がかりにして、その内側にある見えないエネルギーを描く。それが、私の制作の基本となっている。
第2章:エネルギーをどのように描くのか
エナジズムにおいて、キャンバスは、目に見えない力を受け止め、絵画として残すための場所である。
そのために私は、主に色彩、筆致、形態、絵の具の質感という四つの要素を使っている。
色彩
色彩は、作品の温度や感情を決める。
私は、物の本来の色をそのまま再現するためだけに色を使っているわけではない。高揚、緊張、衝突、解放といった感覚を、できるだけ直接的に伝えるために色を選んでいる。
強い色同士をぶつけることもあれば、濃淡を大きく変えることもある。色は、画面のなかにあるエネルギーの強さを目に見えるものへ置き換える役割を持っている。
筆致
筆致は、動きの方向や速さを伝える。
大きなストロークを描くときには、腕だけでなく身体全体を使う。一方で、細部には小さく繊細なタッチを重ねる。
速い筆致、重い筆致、かすれた線、途切れた線。それぞれが異なる動きや呼吸を持ち、画面にリズムを生む。
筆の跡には、描いたときの速度や力加減がそのまま残る。そこには、描かれた対象の動きと、私自身の身体の動きの両方が重なっている。
形態
私の作品では、人物や物の輪郭をあえて歪ませ、引き伸ばし、ときには一部を崩している。
正確な形を再現することよりも、そこにある速度や力の方向を感じさせたいからである。
人が走るとき、身体は写真のような輪郭のまま動いているわけではない。私たちの目や身体には、風や速度、残像まで含めた感覚として届く。
形態の歪みは、単なるデフォルメではない。見えている形を少し崩すことで、その奥にある流れを見せようとしている。
テクスチャー(マチエール)
盛り上がった絵の具、ペインティングナイフの鋭い跡、筆のかすれ、滑らかで平らな面。私は、こうした異なる質感を一つの画面のなかに置いている。
絵の具は、イメージを伝えるためだけの材料ではない。それ自体に厚みがあり、重さがあり、光を受ける物質である。
画面を実際に目の前にすると、印刷物や画面上の画像では伝わらない凹凸や光の変化が見えてくる。その物質感によって、描かれたエネルギーに重さや手触りが加わる。
この四つの要素をまとめるうえで、私が大切にしているのが「粗と密」である。
平らで静かな背景と、絵の具を重ねた密度の高い対象。大きく荒いストロークと、細かな描写。何も描かれていないように見える空間と、激しく動く形。
これらの差をはっきりさせることで、一瞬に凝縮された熱量や気配が強く見えてくる。
余白も、私にとっては何もない場所ではない。
そこには、描かれる直前の静けさや、動きが通り過ぎたあとの余韻がある。刀がどのような軌道を描いたのか。人物が次にどこへ向かうのか。その先を、観る人の想像に委ねるための場所でもある。
描かない部分があることで、動きはキャンバスの内側だけに閉じず、その外へも続いていく。
第3章:作品のなかに見るエナジズム
ここでは、私の代表的な二つのシリーズを通して、エナジズムが作品のなかにどのように現れているかを見ていきたい。
①『Samurai』シリーズ

静寂から放たれる一閃
『Samurai』シリーズでは、画面を切り裂く太刀筋や人物の身体が、現実の形から大きく歪められている。
私が描こうとしているのは、刀や身体の正確な姿ではない。静寂から動へと切り替わる瞬間に、集中、緊張、意志、気配といった目に見えないものが、太刀筋や身体の動きとなって放たれる。その瞬間である。
侍が動く前には、張り詰めた静けさがある。そして一閃のあとには、その動きの残響が残る。
画面に広く設けた余白は、その前後の時間を含ませるためのものでもある。描かれていない刀の軌跡や、次に起こる動作を、観る人が頭のなかでつなげていく。
一つのポーズを固定するのではなく、その直前と直後まで感じられる絵にしたいと考えている。
②『Cascade』シリーズ

形を持たず、流れ続けるもの
『Cascade』シリーズで滝を描き続けているのは、水が絶えず形を変える存在だからである。
水には、固定された輪郭がない。落ち、跳ね、砕け、霧となり、また流れとなって次の場所へ移っていく。
そこには、流動、循環、連鎖という、世界の基本的な営みが、そのまま現れているように思う。
私は、水滴の一つひとつを写実的に描くことはあまりしない。細部を正確に再現しすぎると、水が動き続けている感覚よりも、一瞬が止まって見えてしまうからである。
描きたいのは、水の表面ではなく、落下し、砕け、つながりながら続いていく流れそのものだ。
そのために、細かな描写を削ぎ落とし、方向性を持ったストロークを重ねている。水は一つの物体としてではなく、形を生み、すぐに失いながら続いていく現象として画面に現れる。
第4章:第三者は作品をどう見てきたか
「エナジズム」という言葉を使うようになる以前から、私の作品に見られる動きや気配、絵の具の物質感、そして「粗と密」については、第三者から繰り返し指摘されてきた。
「山下良平さんの作品は、絵の具のマチエールによって、実際に目に見えることのない、モノの運動や気配、躍動感を表現しています。これらを表現するために用いられているテクニックは、『粗と密』と言えるのではないでしょうか。(中略)フラットな背景と密に描かれた人物、絵の具のマチエールがある部分とない部分、筆で描かれた部分とペインティングナイフで描かれた部分などです。これらの『粗と密』の組み合わせによって、作品を目にした者に、それがある一瞬を切り取ったエネルギーの表現なのだと気づかせるのです。(中略)彼の作品には、webのブラウザ越しや、印刷物として鑑賞するのではなく、実際に本物の作品を肉眼で見てみたいと思わせるようなエネルギーが凝縮されている様に感じました」
——見目智史東京造形大学大学院美術専攻修了・DADA株式会社 SAMENOS事業部
「山下良平氏は、一貫して人の『動き』の瞬間のなかに美の極致を見出そうとし、美術家としての独特のジャンルを拓いてきました。風を切り水を踊らせるようなあらゆる身体動作が、思い切った構図と自らの体躯をいっぱいに使った筆致でキャンバスに定着されます。また、競技者のイマジネーションを風景に置き換えたり、四季のセンチメントも題材に選ぶなど、躍動美から展開する様々な瞬間にもテーマを求め、進化し続けているのです」
——吉田広二ギャラリースピークフォー ディレクター
これらの文章は、私自身が後に「エナジズム」と呼ぶようになったものが、それ以前から作品のなかに表れていたことを示している。
色彩、筆致、形、絵の具の厚み、構図、余白。そうした具体的な絵画の要素を通して、私は長い間、目に見えない動きや気配を描こうとしてきた。
先に理論があり、それに従って作品を作り始めたわけではない。
描き続けてきた作品をあらためて見返し、自分が何に惹かれ、何を描こうとしてきたのかを考えた。その過程で浮かび上がってきたのが、エナジズムという考え方だった。
言い換えれば、エナジズムは新しく始めた作風ではなく、これまでの制作のなかに一貫して流れていたものへ、後から名前を与えたものである。
結論:エナジズムが目指すもの
エナジズムは、静止した絵画のなかに、目に見えないエネルギーや世界の動きを描こうとする試みである。
単に、動いている人物や激しい場面を描くことではない。その動きを生み出している意志や緊張、速度、気配までを、色彩、筆致、形態、絵の具の質感、そして「粗と密」の対比によって画面に残そうとする。
絵画に定着された熱量は、観る人の身体感覚や記憶に触れ、作品が人から人へ、場所から場所へと移っていくなかで、さらに別の広がりを持っていく。
水は大地を流れて海へ至り、雲となり、やがて雨として戻ってくる。エネルギーもまた、一つの場所に留まらず、姿を変えながら世界を巡っている。
滝の流れ、渡り鳥の移動、アスリートの身体、侍の太刀筋。そして、アトリエで生まれた絵が人の手に渡り、別の場所で新たな意味を持つこと。
私には、それらがまったく別のものとは思えない。どれも、目に見えない力が何らかの形をとり、次へと伝わっていく世界の営みの一部だからである。
芸術もまた、その流れのなかにある。
エナジズムは、完成した理論として閉じるものではない。これから描く作品によって変わり、広がり、ときには言葉そのものを見直すこともあるだろう。
理論を完成させることが目的ではない。
描くために考え、考えたことを、また次の絵へ戻していく。
私はこれからも、目に見えないエネルギーが形となって現れる、その瞬間を描き続けたい。




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